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陶朱猗頓の富

  陶朱とは越の名臣范蠡の後年の名である。

  周の敬王の二十六年 B.C.497、越王勾踐は、范蠡の諫止をきかず呉王夫差と夫椒山(江蘇省太湖の西洞庭山)に戦って大敗し、數千の敗殘兵をひきいて會稽山(浙江省紹興県の東南)に逃れたが、呉軍に包囲されていかんともすることができなかった。勾踐は范蠡の諫言をきかなかったことを悔い、その助言を求めた。范蠡は、いかなる屈辱にもあまんじて和を請い、再起をはかることをすすめた。勾踐はそれに従って呉に降伏した。以來、范蠡は勾踐をたすけてひたすら國を富ませ兵を強くすることに努め、刻苦二十年の後、ついに呉をほろぼして「會稽の恥」をすすぎ(周の元王の三年 B.C.473)、越をして天下に覇をとなえしめた。

  勾踐が覇者となると范蠡は上將軍と稱された。だが范蠡は、「大名のもとには久しく居りがたい」と思い、勾踐のひととなりが「ともに患難を同じくすべきも、ともに安きに居りがたい」ことを思って、その一族とともに越を去って斉に移った。

  斉で范蠡は姓名を変え、鴟夷子皮と號して売買に従事し、かつて越の國を富ましめた計然(一説に范蠡の著書の名とされているが、しばらく通説に従い范蠡の師としておく)の策にのっとって、物資の過不足を考え、高いときには糞土を捨てるように惜しみなく売り、安いときには珠玉を求めるように惜しんで買い入れ、たちまちのうちに數千萬の富をきずいた。號の鴟夷とは皮袋のことで、不要のときには小さくたたむことができるが物を入れるときには大きくふくらむという意味である。斉では彼の賢才を見込んで宰相に迎えようとしたが、彼は、「家にあっては千金をもうけ官については卿相となるのは栄華の極み。久しく尊名を受けることは身のためではない」と、それをことわるとともに、數千萬の財をもことごとく人々に分けあたえて、陶(山東省定陶)へ去った。

  陶で彼は再び売買をはじめた。この地をえらんだのは、ここが諸侯の國と四方に交通する物資の中心地だったからである。ここで彼は名を朱と変え、よく取引の相手をえらんで時機を見て物資を流通し、またたちまちのうちに數千萬の富をきずいて、陶朱公と呼ばれた。彼は十九年のあいだに三度も巨萬の利を得、そのうち二度までこれを散じて貧しい人々に分けあたえた。後年老衰すると家業を子孫にまかせたが、子孫もまた巧みに生業をいとなんでますますその富を大きくしたという。

  猗頓は春秋の魯の人。もと窮士であったが、塩と牧畜によって富をきずき、猗氏(山西省安沢県)に居して王公をしのぐ生活をした。そのために猗頓(頓はたくわえの意)という。ここから、世に富を云々する者は、あるいは陶朱公を引きあいに出し、あるいは猗頓の名を言った。

  ここから富者をさして「陶猗」と言い、その富をたとえて「陶朱猗頓の富」ということばが起った。

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